titiさんお話

 

父親として、大人としての見つめる、しあわせの一時とは。

 
何気ない日常生活の何気ない事柄から、しあわせを感じることがあります。日々の暮らしの中にある、しあわせを感じながら過ごせれば、きっと毎日が楽しくなりますね。


・・もう、欲しがりません。

 
梅雨は、やはり、梅の実がなり始める時期の雨だからそういうのでしょうか?語源は全く分かりません。
私の愛犬との散歩コースには、梅の木があります。そして、もちろん実がなっています。
5月の始めごろには、本当に小さな小さな、緑色をした実が成り始め、気がつくと大きく立派な梅の実になっています。これは、自然のなせる業で、当然と言えば当然なのでしょうが、やはり不思議な感じがします。
特に、だれが手入れをしている訳でも無いのに、毎年白い花を咲かせ、しばらくすると必ず実を実らせる。どうして、そうなっているのかは私には分かりませんが、良くできた仕組みです。
 
人間もいろいろな仕組みを作ります。しかし、やはりどこかに問題が有り、やがて破たんして壊れたり、やむ終えず変更したり修正したりしなければならなくなります。人間も自然の中に居る生き物なのに、なぜか人間だけが、不自然な事をしでかすのはなぜでしょう。もしかしたら、自然の中で、普通の生き方をしていけば、もっとも良い生活ができるのではないかと思ってしまいます。
 
?普通ってなんだろう? 
先ずは、車が要らないかも・・・
パソコンも要らないかも・・・
豪華な食事も要らないなあ・・・
ジーンズとシャツが有ればそれでいいかも・・・・
髪の毛も自分で切ったりして・・・
家も雨風が入らなければそれでいいかも・・・・
うーん、経済的だ!  
待てよ、自給自足にして、働くのも止めても良いかも・・・ニートか?
うーん、原始人だ!  
マンモスでも探すか・・・どこにいるのかな?
 
さて、何が必要で、何が不要なのでしょうね。
人に親切をするためになければならないものが「必要なもの」
2つ以上あって、どちらか1つがあまり使われないものが「不要なもの」
必要以上に欲しがらないことが[ほんのりあたたか]な気持ちを保つことなのかもしれません。こんな感じでしょうか????
 
(ブログ:[ほんのりあたたか]の記事に掲載したものから)


こんな人が、好きです!

 
今日は車のオイル交換をしてきました。
車を買ってから、4年が経ちましたが、オイル交換は2回目です。そう、車に詳しい人でなくても気がつきますよね。「えーなんでだ!もっとこまめに変えないと」こんな声が聞こえてきそうです。でも、車の説明書には、「25000km毎、または、2年以内に交換してください。」と書かれています。車のエンジンをかけた時にも、「あと何kmでオイル交換です」という表示がでるので、それに従ってきました。
 
ところが、オイル交換作業をしているところを見ていたら、作業員の顔が「げっげ!なんだこれ!」と言わんばかりの表示をしていて、思い余った作業員が私にこう言ってきました。
「お客さん、この車、オイル交換したこと有りますか?」と、かなり心配している様子。すかさず、「25000kmごとでいいと思うので・・・」と言ってみた。
「あのねー・・・車が速く駄目になりますよ・・そんなことしていたら・・・」
「あくまでも、ゆっくり走って、『理論上の計算では』と言うことですからね・・・」
うーん、どうなんだろう?素人としては、判断ができない。
メーカーの言うことが正しいのか、それとも経験を積んだ作業員の意見が正しいのか?
考えてみると、「他人からのアドバイス」も似ているところがあるかな。
「だいじょうぶ・だいじょうぶ・・・みんな、そうだから・・・気にしなければいいんの」とよく耳にするけれど、本当のところは分からない。その人にとっては大丈夫でも、私には大丈夫ではないこともあるし。
 
さて、今日のオイル交換の件では、「作業員の経験」を信頼することにしようと決めました。それは、作業員が一生懸命、自分のもてる知識の限りで、説明をしてくれたからです。そう、その人の心が、私の心に何かを語りかけてくれたからです。別に、オイル交換の時期が早かろうと遅かろうと、私の心が豊かになる訳でもなく、もっと言えば、それで車が壊れても、車が無くなるだけの事で、あまり大きな問題ではないし。機械はいずれ壊れるし。それよりは、通りすがりの普通のお客に、自分の経験と勉強してきた知識を惜しげもなく披露して、何とか私の気持ちを、良くしようとしてくれた作業員の心遣いに敬意を感じました。
 
人生で、出会うことができる人の数は、それほど多くはありません。
そして、出会う人全てが、好意的に関わってくれるとは限りません。
好意的な関わり方をしているようで、実は、物を売りつけたかったり、うそをついていることも有ります。でも、今日のように、自分の経験、自分で勉強した知識、お客さんへの心からの対応。これらは、たとえ、全てが完全・完ぺきでなくても、心を「ほんのりあたたか」くしてくれます。こういう人が私は、好きです。そして、こういう人に、もっと、もっと多く、出会いたい。日々、親切を常に実現しようとする人たちと、過ごしていきたい。うそ・偽りのない人間関係を当たり前だと思い込んで暮らせる場所で生きていたい。これが、私ののぞみです。
だから、先ずは私から、始めてみます。
 
(ブログ:[ほんのりあたたか]の記事に掲載したものから)


お互いにして欲しいことをしてあげる

 
「何をするにも、支えてくれる人がいることが大切です」と語ってくれた先生がいます。
悲しんでいるとき、喜んでいるとき、迷っているとき・・・
どんなときでも、自分ひとりでいると、なんとなく、むなしい気がします。
悲しんでいるときには、慰められたいし、喜んでいるときは、共に喜んでほしいし、迷っているときはアドバイスしてほしい。多くの人がそう感じていると思います。
 
でも、考えてみれば、「・・・して欲しい」といっていることが多いことに気がつきます。そう、自分はして欲しい、しかし、他人にはしてあげていない。これが現実でしょうか。
 
人生を「ほんのりあたたか」く生きていくには、まず、他の人のして欲しいを自分がすることかもしれませんね。支えてくれる人・支える人、この組み合わせがとても大切だということでしょうか。
して欲しいならしてあげることが必要なのかも知れません。
 
(ブログ:[ほんのりあたたか]の記事に掲載したものから)


心配なんかいらないんだね

 
散歩をする道筋に、大きな木があります。
でも、この木は、昨年ほとんどの枝を切り落とされ、幹だけが残っているような状態でした。
「これで、来年も枝や葉が出てくるのかな?」とちょっと心配していました。
 
そして、今年。
春先には、まだ、何も出てくる気配はなく、「もしかしたら、このまま枯れてしまうのかな?」と思っていました。
それから、わずか2ヶ月後。
なんと、葉っぱが出ています。そして、だんだん大きくなり、枝もしっかり出てきました。これで大丈夫。また、大きな木となって葉を茂らせてくれることでしょう。
 
あれ、でもどうやって葉っぱが出てきたんだろう?????
葉っぱはないのだから栄養が作られないし、どうやって、葉っぱを作り出すことができたのかが不思議です。でも、考えてみたら、去年の夏中思いっきり葉っぱを茂らせ、人の家の天井に思いっきり葉をこすらせていました。そう、去年の内に、今年の葉っぱや枝のための養分は、確保されていたという訳です。
 
しかし、まあ、出てきた葉っぱのかわいいこと。
太い幹からいきなり2mmぐらいの葉っぱが、ぽちぽち出ていました。本当にかわいい限りでした。
自然の力って本当にすごい。何も心配もせず、毎年きっちり葉を茂らす。
私たち人間は、木よりももっと高等な動物で、自ら動くこともできるのに、なぜ、必要以上に心配して右往左往するのでしょう。心配なんかいらないのかもしれませんね。本当に心配事がやってくるのは、占いと同じぐらい、不確定なのかもしれません。
 
「ほんのりあたたか」な気分で、毎日を過ごすことにしましょうかね●●●。
 
(ブログ:[ほんのりあたたか]の記事に掲載したものから)
 


優しい心の女性の語る言葉には

 
優しい心を持った女性と話をしました。
その女性は、重い病気のご自分の母親を世話しています。キャリアウーマンであり、独身です。
 
母親は、かなり重い病気のため、介護が必要です。
読む、歩く、食べる、などの人としての基本動作にも介助が必要です。
彼女は、日々の仕事で疲れているにもかかわらず、母への思いやりを、決して軽んじることはありません。
 
彼女は、「母が良くなっていくことは期待できないけれど、母と一緒に過ごすことで母が喜んでくれるのがうれしい。」といっていました。
「母に童話などの本を読み聞かせると、目に涙を浮かべて喜んでくれる。それが私には幸せのひとときなんだ」と言っていました。
 
どうにかすると、自分のことばかりに心を奪われて、周りの人を喜ばせることを忘れ去り、酷いときには、相手が世話をすることに対して、ただただ苛立ちさえ感じてしまうことが多くあります。
それに引き換え、この女性の優しさは、心にしみてくるものがあります。
私も、祖母の面倒をほんの一瞬だけしたことがあります。
でも、はっきり言って、「無駄な時間をすごしていないか?」と自分に問いかけている有様でした。
 
もっと、心に優しさを秘めていたいと痛切に感じた一日でした。
 
(ブログ:[ほんのりあたたか]の記事に掲載したものから)